第十回目は「富山城」を紹介します。
いまさらながらに地元富山市のシンボル「富山城」を紹介します。
地元のお城だけに、皆さんが一番親近感のあるお城だと思います。
内堀のコイに餌を上げた事がある方も多いのではないでしょうか?
平成17年の11月に耐震工事と天守閣の化粧直しを終え、
富山市郷土博物館もリニューアルして展示品も一層充実しています。
また、平成19年3月現在では石垣修理工事が行われており、
普段では見ることの出来ない工事風景を見ることが出来ます。
富山の街中散策をかねて新しくなった
富山城を訪れてみてはいかがでしょうか?
【富山城紹介】
・富山城の歴史
富山城の築城については諸説あるものの、天文12年(1543年)に
神保長職によって築城されたとする説が有力のようです。
富山は北陸道と飛騨街道が交わる交通の要所であり、北側と西側は
神通川に囲まれた要害の地でもありました。
また、当時神保長職と対立していた椎名氏(魚津松倉城)への前線基地
としての役割と立地条件が重なったのでしょう。
しかし、永禄3年(1560年)に神保長職は上杉謙信に破れ、
富山城は上杉家の支配下になります。
その後しばらくは、上杉氏、神保氏、椎名氏、一向一揆と城主が入れ替わり
富山城は戦国の争いに巻き込まれます。
天正9年(1581年)(天正7年説もあり。)に織田信長の武将であった
佐々成政が富山城主になり越中を平定します。
この際にお城と城下町の大規模な改修が行われた様です。
天正13年(1585年)になると、佐々成政は豊臣秀吉に降伏し、富山城は
破却され、以後前田家の支配下になります。
寛永17年(1640年)に加賀藩三代藩主前田利常が、次男利次に10万石を
与えて分家させ、富山藩が成立します。
利次は、百塚に新しく築城を考えていたようですが、財政難のため断念し
寛文元年(1661年)正式に幕府から富山城を富山藩の居城として認可を得て
以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えるに至ります。
現在の富山城天守閣(富山市郷土博物館)は、三重四層の天守と二重二層の小天守からなり
昭和29年に戦災復興事業の完了を機に開催された、
富山産業大博覧会の記念建築物として建設されたものです。
・富山城の規模
明治以降の市街地化により規模を縮小して、現在では本丸と西の丸および
本丸内堀の一部を残すのみとなりましたが、
江戸時代には東側と西側にはそれぞれ出丸を配し、南側には二ノ丸、三の丸を配して
それぞれを堀で囲んだかなりの規模を有していました。
文献によれば、北辺500m、東辺は450m、南辺約600m、西辺は300m
にもなるそうです。
ちなみに書店街として有名な東京の神保町は富山城を築城した神保長職の子孫が
江戸時代に徳川家康に仕えて旗本となり、この地に屋敷構えていた名残と言われています。
【攻城手記】
久しぶりに富山城を訪ねてみました。
いや。目の前は良く通るんだけどねぇ。
今回は千石町通りを抜けて大手前通りを進みます。
ここは江戸時代はお城の大手(正門)前の最もにぎわった場所で
千石町通りは江戸時代初期の古地図にも記載されている古い通りです。
大手前通りを少し進むと総曲輪通りと交差し市民プラザがある場所が
お城の大手門のあった場所とされています。
ここから先が実際のお城の敷地(三の丸)になります。
ちょうど総曲輪通りのあった場所がお城の外堀に当たります。
当時大手門のあった市民プラザ前から天守を撮影したところです。
ちなみに、江戸時代当時の三の丸はかなりの規模があり、
南側は現在の総曲輪通り付近、西側は現在の諏訪の川原電停付近、
東側は現在の西別院付近を囲む規模と推定されます。
これらがお堀でぐるりと囲まれていたわけですからなかなか壮大な
お城であったことが解ります。
そんなことを考えながら、国際会議場前から旧8号線を渡り内堀まで進みます。
ここには、案内板があり、江戸時代と現代の富山城址の比較することができます。
この案内板によると、旧8号線は二の丸にあたり、全日空ホテルや国際会議場は
二の丸と三の丸を分ける内堀であったことが解ります。
また現在内堀で囲まれている城址公園にも南北に走る堀がみられ、本丸と西の丸に
仕切られていたようです。
普通はここから本丸に入るのですが、間の悪いことに工事中とのこと。
国道41号線沿いに回って東側から本丸に入ります。
その前に天守を正面から一枚。
実際は少し西側から撮った写真ですが、ここからの撮影が一番絵になると思います。
一昨年の改装工事で奇麗によみがえりました。
昭和になって立てられた模擬天守といえども、幼い時からずっと見ているので
愛着があります。
さて、ここで富山城のプチネタを5つばかりご披露します。
- まずは石垣についてです。
現在の富山城は本丸の南側から東側に掛けてぐるりと石垣で囲まれていますが、
古地図を見ると石垣は門のあった3箇所だけだったようです。
つまり、現在の天守閣下のあたりと、二の丸の出口(これは現存していません。)
それと現在、佐藤美術館のある東側の出口の3箇所です。
そのほかは石垣でなく土塁で囲まれていたようです。
写真は佐藤美術館横の石垣と大手鉄門前の鏡石です。
大手門の天守下にある石垣には巨石(鏡石)が6個組み込まれています。
これらの石垣もは近年も補修工事により積みなおされています。
その際、貴重な発見もいくつかあったようです。
これら工事に伴う発見については、富山市埋蔵文化センター様が運営されているHPや
富山市郷土博物館様のHPに詳しく記載されていますので、
ぜひそちらも参考にごらんになってください。
(リンクの許可を頂いていないので、HPのアドレスは記載しておりません。)
- 次は佐藤美術館と松川に間にある遊具広場についてです。
私も幼い頃は良くここで機関車に乗って遊んだのですが、
富山城の古地図を見るとどうやらこの一角は内堀だったようです。
現在の松川は当時神通川が流れており、川幅は約200mもあったと言います。
これほどの天然の堀がありながらも、さらに内堀を作り防御を固めていた様です。
- 次は天守閣についてです。
現在の天守閣は先にも述べた様に、昭和29年に立てられた摸擬天守です。
では富山城には天守閣はあったのでしょうか?
私も少し調べてみたのですが、少なくとも江戸時代には天守閣は無かったようです。
しかし、江戸時代に天守閣の建設の計画はあった様で、建設に伴う幕府の許可も得ていたようです。
それでも、建設されなかったのは、度重なる火災と地震や水害などの災害に見舞われ、
財政が逼迫していたからではないでしょうか?
もしかしたら金沢の本家に遠慮があったのかもしれません。
建設予定地は本丸の南東の一角で地下駐車場の上に当たるところです。
近年の調査により、建設のための地固めまでは終わっていた様なので
建設の計画があった事は事実確認されたとの事です。
ただし、江戸時代以前の佐々成政の時代には5層の天守閣を備えていたとする記載も
見受けられます。
真実の程は確かではありませんが、それも歴史ロマンの一部ですね。
- 次は本丸の標高についてです。
富山城に訪れる際本丸部分が一段高くなっていることにお気づきでしたか?
これは富山城を築城した際に、神通川沿いの小さな丘を選んで築かれたからとされています。
本丸の中心部が一番高く、内堀から5mの高低さがあるようです。
近年の調査により、本丸部分が神通川の自然堤防を利用して作られたことと
北の松川側から南に向かって傾斜しており、南側の現在の天守閣あたりには盛土をして
平坦にしたらしい事がわかったそうです。
- 富山城星井町説について
神保長職が築いた富山城は本当に今の場所にあったのか?
少し前まではこんな議論がなされていました。
と言うのも、江戸時代に書かれた歴史書「富山之記」には、神保長職が築いた富山城のことが
記載されており、その記述から推測すると富山城は現在の星井町付近にあったと考えられるからです。
これが星井町説です。
また、一方では、今の富山城は神保長職が築いたお城を改修を繰り返しただけで、
場所は変わっていないとする説がありました。
この2つの説はこれまで決着を見ることなく近年まで議論が重ねられる事となりました。
しかしながら平成14年以降の富山城の発掘調査にて戦国時代の遺構や陶磁器が出土するに至り、
この議論も決着を見て築城当時から今の場所にあったことがほぼ確定されたようです。
【まとめ】
本丸と西の丸以外の遺構は市街地化によりほとんど残されていないが、
修復工事により生まれ変わった富山城はじっくりと訪れる価値がある
とおもいます。
お花見の際にでもいかがでしょう?
リニューアルされた富山市郷土博物館もなかなか面白かったです。
富山城については、
富山市郷土博物館様
富山市埋蔵文化センター様がサイトを立ち上げられていますので
ごらんになってはいかがでしょうか?
補修工事や調査の詳しいレポートも記載されています。
【メモ】
・交通アクセス |
所在地: |
富山県富山市本丸1−62 |
鉄 道: |
JR北陸本線 富山駅下車徒歩10分 |
車 : |
北陸自動車道 富山ICから国道41号線を富山駅方面へ約15分 |
駐車場: |
城址公園地下駐車場を利用 |
・入 場 料 |
城址公園は無料
天守内にある富山市郷土博物館は210円
9時〜5時まで(ただし入館は4時30分まで)
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