のっちゃんの攻城手記−七尾城


第十三回目は「七尾城」を紹介します。

七尾城はお隣石川県の七尾市にあり、室町幕府の三管領の一つ、畠山氏の分家である能登畠山氏の居城だったお城です。
日本五大山城に数えられるだけあって、急峻な山の上に築かれています。
天守閣などの建物は残っていませんが、頂上付近のに築かれた大規模な石垣は必見です。
また、本丸以外にも遺構が良く残っており、見所がたくさんあります。
現在ではお城のすぐそばに県道が走り、本丸の下の駐車場がまで車で上がることが出来ます。

ハイキングコースとしてきれいに整備されてはいますが、 ところどころ急峻な場所もあるので散策する際は、足元を整えておく必要があります。
駐車場から本丸までは徒歩5分です。
お勧めは約1時間のハイキングコースです。
麓から歩いて本丸までいく場合は約1時間の道のりです。

【七尾城紹介】
七尾城の築城時期ははっきりとはわかっていませんが、能登畠山氏の初代畠山満慶による築城説が有力です。
畠山氏は室町時代には斯波氏や細川氏とともに三管領家として繁栄し、畠山氏の領国は能登、越中、河内、紀伊におよびました。
畠山満慶は一旦は宗家を継ぐものの、応永15年(1408年)に能登一国を分国され能登畠山氏が生まれました。
能登畠山氏が最も繁栄したのは7代畠山義総の頃(1526年の頃)と言われ、京から文化人や公家を招き 七尾の町は小京都と呼ばれるほどに栄えていたそうです。
七尾城は築城以来長い年月を経て増築拡張を繰り返し、7代畠山義総の頃には現在に残る規模まで拡張されていたと思われます。

天正4年(1576年)には越後の上杉謙信に包囲されますが、七尾城は一年にわたって持ちこたえます。
しかし、重臣同士の対立が元で、翌年天正5年(1577年)9月13日に落城し能登畠山氏は滅亡することになります。

天正9年(1581年)織田信長より能登一国を与えられた前田利家が城主になります。
しかしあまりにも、山深く領国の経営に適さないことから、翌年拠点を麓の小丸山城に移し、 天正17年(1589年)七尾城は廃城となりました。
畠山満慶による築城から約180年にわたって、能登の中心となって栄えたお城です。

【攻城手記】
能登へドライブを兼ねて七尾城へ攻めることにする。
七尾城へは2回目の訪問になります。
七尾の街中からは標識を頼りながら車で5分ほどで、麓にある七尾城史資料館に到着します。

写真:01.七尾城史資料館


ここで前回訪問時に見逃した資料館を見学しようと思っていたのですが、開館は午前9時とのこと。
まだ、15分ほど時間があるので先に城攻めを済ませてしまうことにします。
ここからは中腹の駐車場まで一本道なので迷うことはありません。
ただ、かなりの距離を走るので「本当にこの道でよかったんだっけ?」と心配になりながらも無事、駐車場に到着です。
駐車場からは、七尾湾を望むことができます。
(中央上部に写っているのは能登島に掛かる能登島大橋ですね)

写真:02.駐車場から七尾湾を望む


駐車場では「七尾城祭り」の会場準備が行われており、地元の人がたくさん働いておられます。
そして前回訪問時には無かった、たくさんのノボリが立てられています。
毎年9月の第三日曜日に実施されているお祭りだそうで、訪れたのは前日の土曜日。
余りに準備が慌しそうなので、本気で帰ろうかとも考えましたが、気を取り直して城攻めに向かうことにします。

写真:03.駐車場から本丸へ


写真:04.現地案内図


駐車場からは本丸下の調度丸と言う所まで遊歩道が整備されていて簡単に行くことができます。
この調度丸には5段に築かれた石垣がで〜んとそびえており、七尾城の最大の見所です。
(お祭りの準備のため折りたたみテーブルが立てかけてあるのはご愛嬌^^)

写真:05.5段の石垣


写真:06.5段の石垣横から


残念なのは、この石垣の最下位部分一部が今年の春の能登沖地震の際に崩れてしまったことです。
地震の余波がこんなところにも影響を残しているんですね。
未だ修復の目処がついていないとの事ですが、一日も早い修復が望まれます。

写真:07.崩れた石垣


五段の石垣を上り終えると、桜馬場という場所に到着します。
ここは東西45m南北25mにもわたる大きなもので、軍馬の調教をした場所と言われています。
隣には遊佐屋敷跡呼ばれる屋敷跡があり、石垣で区分けられています。
遊佐氏は城主に次ぐ守護代の地位にあったので本丸のすぐ下に屋敷を与えられていたのですね。
ここから左へ行くと本丸へ、右へ行くと二の丸、三の丸へ行くことができますが、 まずは本丸ということで迷わず左へ進みます。

写真:08.桜馬場


写真:09.遊佐屋敷から本丸へ


遊佐屋敷跡からすぐに本丸下に到着します。
ここにもすばらしい石垣が3段に渡って築かれています。
(う〜む。先の5段石垣と甲乙つけ難い。)
山城にある石垣を見る度にいつも思うのですが、良くぞこれほどの数の石を山頂まで積み上げたものだとつくづく感心します。
今みたいに重機がなかった時代に300mの山頂まで石を運ぶなんて・・・。想像の域を超えています。
おそらく能登の国中から人夫が集められたのでしょうが、大変な難工事だったことでしょう。
また、これほどの工事を可能にした能登の国力にも脱帽です。

写真:10.本丸下の石垣


写真:11.本丸への石段


この石垣の下は断崖絶壁になっているので本丸に攻めるには、 桜馬場から本丸に向かうこのルートしかありません。
今は建物がないので想像できにくいですが、当時は要所要所に門が構えられて 石垣や塀で区切られていたことでしょう。
門を閉ざしてしまえばまさに難攻不落のお城です。

石垣に感激しながら石段を登りきると、いよいよ本丸に到着です。
やはり本丸からの眺めは一味違います。
かの上杉謙信もここからの眺めは筆舌しがたいと書いていますが、天気の良い日に訪れると納得できますね。
本丸の広さは、ほかの山城比べて格段に広い気がします。
一段高く盛られた土塁の上には今は神社が建立されています。

写真:12.本丸からの眺め


写真:13.神社


本丸奥の一段下がった場所には石垣を持った郭があります。
他から隠れるように置かれている郭で、重要な施設があったのかもしれません。
この郭から遊佐屋敷の裏を通って桜馬場へ道がつながっていますので、そこを通って桜馬場までくだります。

桜馬場からは、右に進んで二の丸と三の丸方面へ向かいます。
二の丸に向かう途中には温井屋敷跡があり、そこには九尺石と呼ばれる巨石が 積み重ねられています。
現在では上部が崩れてしまっているのか中途半端な高さの石垣ですが、 当時は下から見上げると圧倒されるほどの迫力があった石垣だったことでしょう。
(お祭りのイベントのウォークラリー用のスタンプ台が置かれているのは愛嬌^^)

写真:14.九尺岩


写真は温井屋敷跡から二の丸を眺めた絵です。
写真上部が二の丸になるのですが、二の丸は本丸と連なった隣の山頂上部に築かれていて 周囲にはたくさんの曲輪を配置して本丸とは独立して戦えるようになっています。

写真:15.温井屋敷から二の丸へ


二の丸からは三の丸を目指します。
三の丸は二の丸の下に配置されているので今回は山を下ることになるのですが、 ここの斜面。ものすごく急斜面です。
今は手すりと足場が整備されているので大丈夫ですが、ただ降りるだけでも 足元に気をつけないと滑り落ちそうになります。
敵が攻めてくるときは、この急斜面を戦いながら登ることになります。
これも難攻不落の所以ですね。

写真:16.二の丸から三の丸へ


この堀切(空堀)は二の丸と三の丸の間にあります。
これまでにいくつもの山城を攻めてきましたが、これほど大規模な堀切は記憶にありません。
それほどに見ごたえがあります。
(まぁ。単なる山と山の間の窪みなんだけど・・・。お城好きには必見の場所です。)
この堀切のおかげで三の丸から二の丸に攻めるのは非常に難しかったのではと思われます。
(写真の右側が二の丸から降りてきたルートです。左側が三の丸になります)

写真:17.堀切


そうこうするうちに三の丸に到着です。
この三の丸はとにかく広いです。南北110m東西25mの規模を誇ります。
三の丸も二の丸と同じように、周囲の曲輪と連携することで 本丸や二の丸から独立して戦うことができる様になっています。
敵が攻めてきた場合には、真っ先に標的になる場所ですから 入り口には石垣で作られた虎口があり、防御度を高めてあります。
また、三の丸のすぐ下にある安寧寺跡には、畠山氏の墓碑や 七尾城の攻防でなくなった武士の慰霊碑があります。

写真:18.三の丸


写真:19.安寧寺跡


ちょうどこのあたりまでが七尾城の中核と呼べる部分でしょうか。
安寧寺跡まで来ると大手道とぶつかりますので、このまま大手道を下ることもできます。
大手道を下ると番所跡や、時鐘跡などの遺構を見ることができます。

ただ、これ以上山を下ると駐車場に帰り着くのが大変になってしまうので、 今日の所は、ここでUターンして大手道を登って駐車場まで戻ることとします。
大手道は三の丸−二の丸の下を這うようにして調度丸まで通じていますので、 アップダウンがなく坂も穏やかで先ほどに比べとても歩きやすいです。
(まぁ。遺構は見られないけれどね。)

途中には樋(とよ)の水と呼ばれる水場があります。
この水場は現在まで残っている唯一の水源で、これまでずっと枯れたことがなかったそうですが、 今春の地震以降は水量が減ってきているそうです。

写真:20.とよの水場


寺屋敷跡を過ぎると出発地点の調度丸に到着です。
調度丸の大手道からの上がり口には石垣で囲まれた虎口が残っており、 ここもお城好きには必見の場所です。
当時は重厚な門と壁があって、さぞ防御に適した施設になっていたことでしょう。

写真:21.寺屋敷から調度丸へ


写真:22.調度丸の虎口


出発地点の調度丸まで戻ってくれば、駐車場は目と鼻の先です。
この後は車で麓に下りて、今朝見学しそこなった七尾城資料館と懐古館を見学します。
懐古館は約190年前に建てられたこのあたりの庄屋の家です。
館長さんらしき方が親切に案内してくださいました。
気持ちの良いひっそりとした庭園が印象的でとても居心地が良かったです。
七尾城史資料館の方は・・・。(まぁ。どこのお城でも似たようなものなんだけど)
写真:23.七尾城資料館


写真:24.懐古館

【まとめ】
本丸下の階段状に築かれた石垣は必見。
本丸下に連なる二の丸、三の丸も遺構が良く残っておりお勧め。
かの上杉謙信をもってしてもなかなか落とせなかった、まさに難攻不落の名城。

【メモ】


・交通アクセス
所在地: 石川県七尾市古城町
鉄 道: JR七尾線七尾駅からタクシー
車  : 能登有料道路 田鶴浜料金所−国道249−国道159など
駐車場: 山腹の無料駐車場を利用。

・入  場  料

無料

・近くの見所
小丸山城: 前田利家が能登一国を与えられた際に築城したお城
能登国分寺公園: 東西200m、南北160mを誇る周囲を回廊で取り囲まれた奈良時代の寺院跡
和倉温泉: 北陸の名湯。城攻めに疲れた体を休めるのに最適。


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Text & Photo by Y.No


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