今回富山城を攻める際にふと思いついたのが、
お城の防御についてでした。
※前回参照
確かに三の丸の規模はかなりの大きさを誇っていたようですが、
実質的な防御施設は外堀と内堀だけです。
石垣も重要なところに部分的に築かれている程度です。
ましてや三の丸の外に広がる城下町にはほとんど防御施設が作られていない様に
見受けられましたので、少し調べてみることにしました。
○富山城下町の生成と城下町の境
富山城下は神保長職が富山城を築城後、少しずつ規模を大きくしていき
江戸時代の初期の頃には東は鼬川、南は四ッ谷川が流れる星井町、西は助作川が流れる諏訪川原町あたりまでが、
城下町として整備されていたようです。
特に、新庄から柳町付近を経て富山城に至る北陸街道沿いと
富山城から太田口通りを経て南へ延びている飛騨街道沿が古くから開けていたようです。
当然城下町の防衛についてもこのあたりを中心として行っているはずです。
○河川改修による防御
北側と西側とは大河神通川に囲まれているので、まあ安心ですが
特に南側は平野が広がっています。
現在の富山市の地図ですが、いくつか注意深い点を見つけました。
- お城の東側を流れるいたち川の流れが人工的な流れになっている点。
- お城の南側に細い川が流れているが星井町のあたりで流れを変えている点。
これらについて現地に赴いてみました。
1.いたち川の整備について
富山城下はたびたびに水害に見舞われ多くの被害を出しています。
そのためにも河川改修と治水が大きな目的であったことはわかりますが、
当然軍事面が考慮されたことは容易に想像できます。
上記の案内板は向川原町の月見橋の袂にある案内板です。
この案内板によれば、佐々成政がお城の東側の外堀の役目としていたち川の整備を整備したとあります。
(佐々成政の頃から整備が始まったと解釈するのが正しいかも。)
先にも書きましたが、いたち川は辰巳町付近と石倉町付近。豊川町付近で大きく流れを変えてほぼ直角に曲がっています。
特に、豊川町付近は北陸街道が走り、ここの河川改修をすることは城下町の防御にも大きな意味があったと推察されます。
写真では良くわからないのですが、一番興味深いのは辰巳町付近です。
このあたりは旧河川から新河川へ流れを変える場所であったためか特に複雑な川の流れになっており、
河川工事の苦労がしのばれます。
2.四ッ谷川
あまり知られていない川ですが、城下町の南の防御の一手に担っています。
ちょうど南からお城に向かって流れている川が星井町で突然流れを変えて西に向かいます。
そしてそのまま裁判所の裏を流れ南部中学校で冷川と合流し布瀬町2丁目でまた北側に流れを変えて、
助作川と合流しています。
富山藩分藩された当時は川沿いには土手も築かれていたとのことなので、
城下町の南側と西側の守る堀としての役目を担っていたと思われます。
○現辰巳町の寺町の設置
江戸時代の古地図を見ると、城下町の南東のはずれに50以上のお寺が集中して記載されています。
これは、さしたる防御施設の無い南東側の防御力を高めるために意識的に配置されたと思われます。
当時のお寺は敷地面積も広く兵を駐屯させることも可能でした。また、塀などで囲われていたため
有事の際は砦として利用することが出来るようになっていました。
現在の辰巳町近辺がこれにあたり、今でも沢山のお寺があって当時を忍ばせてくれます。
○街道の工夫と木戸の設置
現在の富山市街地は碁盤の目のようにきちんと道が整備され通行がスムーズになっています。
ところが、戦国の時代はこのように道の通行がスムーズでは有事の際には敵に攻め込まれやすくなるため
敵が攻め込みにくくするためのいろいろな工夫がなされていました。
富山藩が分藩された頃の寛文六年(1686年)「御調理富山絵図」書かれた地図には
沢山のクランクや木戸、わざとずらしてある交差点、急に幅が狭くなる道路、T字路・・・。
が多く描かれており、攻めてきた敵の見通しを悪くして攻めにくくする工夫がなされています。
○街道沿いの神社
これはちょっと意味合いが違うかも知れませんが、
富山城下を走る街道沿いには、城下を守る神を祭るために神社が置かれました。
北陸道沿いの東側には、舟橋を渡った神通川の対岸に「愛宕神社」を祭り、
北陸道沿いの西側には、稲荷神社を配しています。
そして飛騨街道沿いには山王町に「日枝神社」と中野新町に「白山神社」を配しています。
なお、「御調理富山絵図」を初めとする古地図は富山県立図書館様のサイトにて閲覧できますので
興味のある方はぜひご覧になったらよろしいかと思います。
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