I feel 管理人が感じたことをとりとめなく書いてます
Text by Y.Ohara
2005.11.11 〜 感じることは楽しい 〜
みなさんこんにちは!
なんとなく始めてしまったこのページ。管理人であるワタクシが感じたことを
メモする感じで書いていこうと思います。特に何かの役に立つはずも無いのですが、
とりあえず、ようこそ”I feel”へ!
タイトルを”I feel”としたのは”考える”ことよりも”感じる”ことを
大切にしたいと最近思うようになったからです。「リクツじゃないんだ!」と
いうと大げさに聞こえますが。
ヒントになったのは、2年前の夏、友人から聞いたある映画のセリフでした。
その映画はブルース・リーの「燃えよドラゴン」。話を聞いて早速ビデオを見ました。
冒頭でリーが弟子の少年にカンフーの稽古を
付けるシーンでのセリフです。リーは弟子の頭をひっぱたき、”Don't think ! Feel !"
と叱ります。「考えるな!感じろ!」。目からウロコ、でした。
スポーツの世界では、”感覚”を大切にしますが、一方では嫌います。
理詰めで論ずることが”科学的”と言われ、”感覚”を重視することは
”非科学的”だとずっと思っていました。
ですが、”感覚”を重視すると、歩いていても走っていても楽しいということに
気がついたのです。自転車に乗っていても泳いでいても楽しいんです。1歩1歩脚の振り出し方
や接地の仕方などを変えて歩くといろんな情報がフィードバックされてきます。肉体感覚だけでなく
周りの景色や風向き、においなど、様々なものが感じられます。まさに五感で楽しめる。
最近では、これがウオーキングの醍醐味だ、とさえ思います。
自分がリクツに弱いだけかもしれませんが。
2005.11.16 〜 在るがままの自然 〜
みなさんこんにちは!
先日、ウオーキング教室のスタッフとして富岩運河環水公園を歩いていた時のこと。
この公園はいろいろな草花や樹木が植えられており、この時はナナカマドやナンキンハゼが紅葉してきれい
だった。水面ではカイツブリが見事な潜水を見せてくれた。
一緒に歩いていたもう一人のスタッフがぽつんと一言。
「こういう風にキチンと整備してしまうと、つまらないと思わない?もっと雑草や雑木があったほうが、いろいろ
(動物や植物との)出会いがあって面白いんだよなぁ。」
これには驚いた。実は以前から、僕もそう思っていたけれども、同じ感覚の人が身近にいるとは。
手付かずの自然はそれだけで美しいし、いろいろな種類の動植物が混在する場所はとても気分がいい。
でも。
「それじゃあ、草ぼうぼうの空き地は、美しい?」と聞かれると、答えに困ってしまう。僕なら「生えている草によるね。」
とでも答えるのが精一杯かな。
もしかしたら我々が美しいと思う自然とは、人間がコントロールし、デフォルメされた「擬似自然」
なのではないだろうか。人間の手が入っていない自然は文句なく美しい。そんな場所に身を置くことが出来るのなら、
それは大変素晴らしい体験である。しかし、残念ながら我々は原始の森や未開の地で暮らせるわけではないのだ。
人間の生活するエリアでは、人間が主導権を握らなければ安心して暮らせない。動物や植物に好き勝手にされては困る。
でも、自然を壊しすぎては人間も生きていけない。在るがままの自然と草ぼうぼうは紙一重なのかもしれない。
ランドスケープ・デザイナーの中谷耿一郎氏が雑誌のインタビューでこんなことを言っている。少し長いが
要約して引用したい。
「いい庭って『自分たちの生活が不快にならない範囲でより自然に近い状態に置いておくスペース』と定義できる。無理すると
自然は敵になっちゃうからね。ビオトープが流行って、あちこちにうわーっとビオトープができたけど、それで住民とのトラブルが
起きたところがかなりある。蚊が大量発生したりとか。本当にそこにビオトープがあっていいかどうかっていう視点が欠けて
いるんだよね。いくら自然が好きでも、普通の人は原生林には住めないでしょ。だから昔の人は、たとえば里山を作って、
生の自然と人間の住む土地の緩衝帯にしてきた。そういう文化が廃れてしまって、自然とどうつき合うかっていうことが最近みんな
よくわからなくなってくる。まあ僕の仕事は、その代表である植物と人と建物のバランス、日本語で言うなら、いい塩梅(あんばい)
をみつけていくことなんだよね。・・・・」
うーん・・・・。
こういう答えのない問題を、あーでもないこーでもないと考えることは、しんどいけれども不快なことではない。
僕も自分なりの「いい塩梅」を、ゆっくり時間をかけて見つけてみたいと思う。いやまてよ。
見つけることよりも、見つけようとすることが大切なんだろうな、きっと。
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2005.11.18 〜 裸足がすき 〜
こんにちは!
突然こういうことを宣言するのはどうかと思うが、僕は裸足が好きだ。
これからの季節、家族は家の中でも靴下を履いているのだが、僕は頑なに裸足。
「冷たくない?寒くない?」と聞かれても、「冷たいけど裸足が好きだから」
とあくまでポリシーを貫いている。できれば外も裸足で歩きたいと思っているくらいだ。
ちなみに、車の運転も裸足でしている。ブレーキがしっかり踏めなくて危険だよ、
と言われた事もあるのだが。
なぜ裸足が好きなのだろうか。あまり大した理由は見つからず、
とにかく裸足は気持ちがいいから好き、としか言いようがない。
大体、「靴下」の役割というのは、その文字の通り
靴の下履きとしての仕事が主なのだ。つまり靴下は、靴の補助具という「道具」なのだ。
靴の中で足が大量にかく汗を吸い取り、しかも安価で容易に取り替えられる。
平たく言えば足のパンツ。裸足で靴を履くと靴の中が真っ黒になってしまう。
それを防ぐのが靴下なのだ。
さらに、靴と足とのフィット感を高めるクッションというか
スペーサーの役割も兼ねるスグレモノ。つまり、靴と一緒に使われて初めて
靴下は自分の実力を発揮できるのだ。まあ、あったかいというのは確かだけど。
そして靴はといえば、足の保護の他にも、状況に応じて足に様々な機能を
付加することが出来るこれまたスグレモノ。そう、靴もまた「道具」である。
さらに、靴はかつて、身分を表す装身具としても用いられていたそうだ。
身分によって履ける履物が決まっていたと言うし、中世ヨーロッパでは貴婦人たちが
ヒールの高さを競い合ったという話もある。その名残がハイヒールだとか。
確かに靴や靴下は生活に必要な道具である。しかし、人間には使えば使うほど丈夫になる
靴がある。すなわち素足。
裸足でいる時間が長くなれば、足の皮膚が丈夫になるだけでなく足の裏にある神経、
言わば足裏センサーが発達する。いや、本来持っていた機能が蘇ると言ったほうが
いいかもしれない。
ある実験によると、裸足でいる時間を増やしたら、土踏まずの柔軟性が向上した
という結果が出ている。土踏まずの柔軟性が向上すると、足に加重をかけたときに、
足がグッと広がりサスペンションの役割を果たす。足に裏は、二足歩行する人間が、
空気を除く外界と接する唯一の部分。足の裏から得られる情報は、地面の凹凸、傾斜、
地面の硬さ、摩擦の強さなどの外界の情報のほか、
自分の体の傾きや重心の位置といった情報も感じ取ることができる。
裸足の時間を増やすことで、足裏センサーが忙しく働いた結果、足本来の機能が蘇り、
サスペンションも復活したのだ。
靴を履くと、土踏まずの柔軟性が低下し、足裏センサーを遮断し、足が本来持っていた機能が
働かなくなってしまうらしい。ツボも足の裏に集中していると言うし、とにかく足は大事なのだ。
社会通念上、屋外では履物を履かざるを得ないのだが、出来るだけ裸足で過ごしたいと
思っている。
やっぱり裸足は気持ちがいいから。
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2005.11.24 〜 贅沢 〜
僕には息子と娘が一人ずついる。息子は小学1年生で娘は保育所の年少組だ。
僕の仕事は時差出勤や土日祝日出勤もあるので、保育所の送り迎えをする機会が多い。
保育所の送り迎えは、上の息子の時から数えて、もう4年半になる。
自宅と保育所の間は、子供の足で10〜15分程度。何か理由がない限り、
極力歩くことにしている。このわずかな時間が僕にとってはものすごく貴重な、
かけがえのない時間である。
チビはチビなりにいろいろあるらしく、その様子を見ていると、とても可笑しい。
月曜日の朝は気分が乗らないらしく、足取りが遅い。暑いときは日陰、
寒いときは日向を歩きたがる。保育所で楽しいことがあった日の帰り道には
いろいろ報告してくれるが、まとまりがなく何を言いたいのかわからない。
逆に言葉数が少なく、トボトボ歩いて帰る日には「何かあったの?」
と聞いてみると「別に・・・」と一人前の返事が帰ってくることもあった。
どうせ大したことではないのだろうけど、気になるなぁ。
スリルも興奮もないけれど、こういう風に、子供と一緒に歩く日常的な時間が一番贅沢なのかもしれない。
下の娘の卒園まであと2年半。この贅沢を楽しもうと思う。
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2005.11.29 〜 風景 〜
先日、弥陀ヶ原ホテルで行われた「ありがとう立山」という行事に
参加する機会を得、1泊してきた。
山開きの行事があるのだから、閉山の時もなにか立山に感謝する行事があっても
良いのではないか、ということで今年から始まったそうだ。
僕も「旧立山道ウオーク」の関係者ということで声を掛けていただいたらしい。
立山に関係する方々が一堂に会し、酒を飲む、という誠にシンプルな会だったが、
立山黒部貫光の幹部方々や山荘関係者、ナチュラリスト、県警山岳警備隊、
国土交通省の砂防関係者、環境省のレンジャー、ガイド、ボランティア、
富山市や立山町の観光関係者、雄山神社の禰宜さん達など約120人が集まり
盛大であった。
この会も大変貴重な体験だったが、なによりも、雪の立山は生まれて初めてだったので
感激した。時間があれば黒部湖まで行きたかったのだが。
この日もヘタクソな写真を撮るため、持参していたデジタルカメラで朝の風景を撮影した。
雪に映えるナナカマドの真っ赤な実や、大日岳など、自分なりに美しいと思った
風景を切り取ってきたつもりだ。しかし、下山してパソコンの画面で見ると、
なんだかぱっとしない。いや、今回ばかりではなくいつも・・・。
絞りや感度やシャッタースピードをカメラ任せにしているくせに、
しゃらくさいって言われるかもしれない。でもいいのだ。
人様に自慢できるものではないが、撮った本人は、写真を見ればその時の空気の
においや風の感触が蘇ってくるのだから。
僕は近頃、自分が風景の写真を撮るのが好きなことに気付いた。
生き物が生活している風景。人間も動物も草も木も石ころさえも違和感なく混じりあっている風景。
うまく言えないが、そんな風景を切り取ることが出来たら、と思う。
そして、僕自身も風景の一部となって街や野山を歩けたら、どんなに素晴らしいだろう、と思う。
風景の中で”浮いていない”存在になった時、僕は一人前のウオーカーになれる気がする。
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2005.11.30 〜 観天望気 〜
僕はスポーツクラブ富山というクラブでウオーキングコースの担当をしている。
毎週火曜日に行われるので、週間天気予報はいつも気になる。
「悪天候の場合は中止」としており、やるかどうかは当日の午前11時に決定しなければならない。
実際に歩く時間は午後2時から3時半までなので、3〜4時間後の天気を予想するのだ。
もう一人別のリーダーの方がいるので、その方と連絡を取り合って決定するのだが、
いやなのは「午前中は晴れで午後から雨が降る」もしくは「午前中は雨で午後から晴れる」
という天気予報だ。
決めかねる場合は、お互いに
「どうします?」「うーん・・・・」と牽制しあっている。
「悪天候」というちょっとズルイ表現は、途中で雨に降られた場合の言い訳。
「これくらいでは、悪天候とは言いません!」と開き直るつもりなのだ。
僕自身は雨の日のウオーキングも好きなのだが、主催者としてはやはり気を使うところだ。
インターネットを見れば、
雨雲の動きの予想や3時間毎のエリア別予報など、詳細な情報が得られる。しかし、
それだけで判断するわけにはいかない。
なぜなら天気予報は当たるとは限らないからである。
日本の天気予報は
全国を20km四方のメッシュ(網目)に区画し、約2000地域についての
3時間ごとの気象状態を24時間先まで予報しており、これを天気分布予報
と呼んでいるらしい。この予報は、全国に約1300箇所で同時に観測されている
アメダス(地域気象観測システム)のデータや各メッシュごとの地形や風の特徴など条件を
コンピューター処理して行われる。世界に類を見ない緻密さだそうだ。
そこまでしても、外れるのはなぜか?
「雨」の予報は20kmメッシュのどこかに雨が降るという予報なのだ。また、
おなじみの降水確率は、予報の対象となっている地域・時間帯に1mm以上の雨または雪の
降る可能性を10%刻みで表したもの。たとえば、降水確率50%とは、50%の予報が
100回発表されたとき、そのうち50回は雨が降ることを意味している。
逆に言えば50回は雨が降らないのだ。
しかし、僕らが気になるのは、今日自分の頭上に雨が降るかどうか、である。
それは無理、というものだ。
そこで、それらの情報に加え、観天望気が必要になる。
雲や風や湿度などを自分の五感で感じて天気を予測するのだ。特に雲の形や変化は
「波雲は雨」・「太陽が暈(かさ)をかぶると雨」・「うろこ雲は悪天の兆し」などの多くの
言葉があるように重要な観察ポイントだ。
僕の場合は、まず外に出る。そして空を見上げる。いかにも天気を読んでいるような
格好でしばらく眺めた後、首をひねりつつ部屋に戻る。つまりなにもわからないのだ。
従って、僕が天気を判断するときはいつも「カン」である。といっても、知識や経験に基づいた
インスピレーションではなく、正真正銘まじりっけなしのヤマカンなのだ。
下駄を転がした方がまし、かもしれない。
「観天望気」 僕の憧れの言葉。
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2005.12.05 〜 雪が降った 〜
この冬初めての雪が降った。
子供はスキーだとかカマクラだとか騒いでいる。本格的な積雪はもう少し先だろうが、
ようやく冬らしくなってきた。今年の秋は暖かい日が続き、山の紅葉も今ひとつだったとか。
我が家では毎年、僕が見よう見まねで雪囲いをしているが、今年は
汗をかきながらやったほど、暖かかった。
しかし、師走に入り、冬将軍も「やるときはやる」的
意気込みを見せ、面目を保ったようだ。
我が家の壁にかけてあるカレンダーには通常の日付のほかに、旧暦や二十四節気
が書いてある。今日(12月5日)は旧暦の11月4日である。2日後の
新暦12月7日は二十四節気のひとつ「大雪」。寒気盛んとなり、
大雪となる気配も濃い、という期間のことである。
旧暦とは、明治5年まで日本が正式な暦として採用していたもので、中国が4000年
かかって作った「農暦」に日本独自の改良を加えられて作ったもの。
最大の特徴は、太陽の他に月の運行にもリズムを合わせ、それによって日本特有の季節の
移ろいを暦にあらわしたことである。
月の運行を規準とした太陰暦と太陽を周回する地球の運行を規準とした太陽暦を組み合わせたもので
「太陰太陽暦」と言う。太陰太陽暦では、太陰暦と太陽暦の誤差を修正するために
「閏月」があり、閏月は19年に7回の割合でどこかに入り、その年は13ヶ月になる。
どこかに入れる、といってもテキトーにいれるのではなく、チャンとした計算法が構築されているらしい。
どこに閏月が入っているかで、その年の季節の移り変わりが予測できる。たとえば、2月と3月の間に
「閏2月」があるとする。旧暦では1〜3月を春、4〜6月を夏、7〜9月を秋
10〜12月を冬、と決められている。従って2月が2回あるということは2月の気候が長引き、
春が長いということになる。また、春が長いと言うことはその後の季節も後ろにずれるということ。
現在の太陽暦での季節感では「異常」と見られる気候も、旧暦で見ると意外にキチンと季節の
移ろいは行われている、という話を読んだことがある。
世界中と交易をするためには、統一した暦が必要であり、
そのために採用されたのが「太陽暦」である。
しかし、太陽暦が発明されたのは古代エジプトとかの、1年中季節が一緒、という地域らしい。
日本とは季節感が異なるのは当然だろう。
僕はいつも、季節を五感で感じようと意識して歩いている。
しかし、カレンダーを眺めても季節を感じることが出来るのだなぁ、と妙に感心した初雪の日だった。
ちなみに、昨年の旧暦11月4日は新暦12月15日だった。昨年のことを覚えている方は
比較してみるとおもしろいかも。僕は全く覚えていないが・・・。
※ここに記載している暦に関することは、僕の聞きかじりの記憶によるものと、手元にあった
雑誌の記事を要約したもののミックスであり、間違っていたら笑って許されたい。
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2005.12.13 〜 遠回り 〜
ムスメを保育所に送り迎えしていると、ムスメが「違う道から行きたい」
と言う。違う道、といってもいくつもバリエーションがあるのではなく、
いつもの道よりちょっと遠回りのお気に入りのルートがあり、
それを4歳のアタマでは「違う道」と表現しているようなのだ。
僕も何度も通ったことがある。
普段は祖母と通所しているのだが、祖母はいろいろと家事が忙しく
必ず最短ルートを通らされるのがムスメには不満らしい。
僕が送り迎えをするのは自分の休日なので、基本的にヒマであるから
ムスメの好きな道を歩かせることにしている。
その「違う道」とは、遠回りしてでも通るほどの価値があるとは思えない、ごくフツーの通りなのだ。
それでもムスメはそのルートが好きらしい。
いや、もしかしたら、そのルートに何かあるのではなく、
遠回りする行為自体を楽しんでいるのでは
ないだろうか。その気持ちよく分かる。
先日こんなことがあった。
忘年会に出席するため、自宅近くのバス停から富山駅行きの
バスに乗ろうとしたが、マヌケなことに休日と平日の時刻表を見間違え、次のバスが来るのは
30分程後。そこで、バスルートを富山駅方面に歩くことにした。バスに追いつかれたら
そこから乗ろうというわけである。やったことあるでしょう?
結局30〜40分歩いてバスに乗った。
いつも車で通っているので、珍しい風景ではない。
そのことでバス料金が大幅に安くなったということもなく、普通に考えれば時間と体力の
無駄である。
ところが、この道を歩いて通るのは今回が初めてということもあって、とても楽しかった。
そう、遠回りを楽しんだのだ。
この「遠回りの楽しみ」は「歩く楽しみ」と言い換えることができるかもしれない。
単なる移動手段でもなく、健康づくりのノルマでもなく、ただ知らない道を歩いてみる。目的地まで
ちょっと遠回りしてみる。
この「行為を楽しむ心」を忘れずにいたいものだ。
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2005.12.22 〜 雪が好き 〜
雪は好きかと聞かれたら、大抵の富山県人は「キライ」と答えるのではないだろうか。
富山生まれ富山育ちの家人も「あー今日も雪かー・・・」と毎日うんざりしているようだ。
今年は12月としては記録的な大雪だそうで、僕と息子と娘は雪の季節が早めに来たことを喜んでいる。
僕は雪のない地方で生まれ育ち、富山に住んでまだ9年である。いまだに
雪が珍しく、見る見るうちに真っ白になっていく風景を飽きずに眺めている。
雪囲いもなんとか見よう見まねでヘタクソながらも出来るようになり、
この冬を迎える作業がなんだか楽しい。木を束ねたり、上から吊ったりする作業を
していると無心になれ、富山の土地と一体になった錯覚さえ覚える。
歩くことでその土地と一体になれる気がするあの感覚と一緒なのかもしれない。
さて、雪、である。雪はきれいなだけでなく、時に危険を伴うことはよく分かっているつもりだ。
今年も雪に関する事故で、亡くなった人が大勢いるとのこと。
それでも、僕は雪が好きだ。雪のある風景と、自分がその中にいることが好きなのかもしれない。
しんしんと降る雪も好きだし、雪に埋もれた田んぼが晴れ間に白く輝く風景も、月光に青白く
照らされた庭を眺めるのも好きだ。高曇りの日にきらきらと光りながら降る雪も好きだ。
そして、そこで無邪気に遊ぶ子供を見るのも好きだし、自分が雪の中で遊ぶのも好きだ。
雪かきでさえ、肉体的にはきつい時もあるが、楽しんでいる。
これらは雪国の人々にだけ与えられた特権なのだ、と思うのだが。
ところで、僕はこのせっかくの大雪のときに風邪をこじらせてしまった。
子供たちが鼻水を垂らしながら楽しそうにカマクラを作っているのを、室内から見てるだけ・・・
なのである。
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2005.12.28 〜 屋根雪とフラット着地 〜
昨日、自宅の屋根雪を下ろした。全部は無理なので、一部だけ。
雪の積もった屋根にのぼるのは初めてなので、怖かった。
滑らないように屋根の上を歩くコツがわかった。
なるべく足と屋根との接地面積を広くし、そこに体重をまんべんなく分散させるようにしたら
安定して歩けた気がする。
ランニングで以前より注目されている「フラット着地」ってこんな感じかも?
踵や拇指球という「点」での接地ではなく、足の裏全体で体重を支え、地面に力を伝える。
今までいろいろ試してみても実感しにくかったのだが、
身の危険を感じ、必要に迫られることで、意識できたのかもしれない。
これが日常生活の歩きにどう活用できるか、については歩きながら試すのが一番。
楽しみがひとつ増えた、と思っている。
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