Tool-002 本の紹介
「 永遠のセラティ −自然流ランニング哲学− 」(初版1989年) 山西哲郎・高部雨一共著 / ランナーズブックス
数々の名ランナー(ハーブ・エリオットなど かなり古いです)を育てた歴史に残るコーチである、オーストラリアのパーシー・セラティの「哲学」を軸に、著者達が現代のランニングの在り方について疑問を投げかけており、ウオーキングにも通ずる内容だと思います。
この本を手にした時、私は陸上部に所属する高校生でした。当時も今も単純な私は、この本に大変感銘を受けて、いまだに時々読み返しています。
以下、一部を引用してご紹介します。
『今ひとつ思い出したことがある。子供たちのことだ。彼らと林を走っていた時だ。誰もがなぜか競いあい、他者を蹴落としてでも一番にさえなれればと、勢い込んで走っていた。(中略)その時、数羽の小綬鶏(こじゅけい)が林の中の小さなやぶから突然飛び出したのだ。子供たちがワッと喚声をあげ、その場は一時の混乱に陥ったかに見えた。しかし、混乱しているはずの子供たちの顔がやけに生き生きとしだしていることに私は気づいた。(中略)もはや、ちっぽけな競争などせずに、林の中の鳥やリスや兎たちに思いを馳せながら、楽しくおしゃべりしながら走るのだ。一人の子など、私に向かって「坂道はネ、かもしかのようにピョンピョン飛ぶように走るんだ」というと、気持ちよさそうに本当にかもしかのように坂道を上っていった。その走りは、なにものにも束縛されない自由で自然な走りだった。その子のマネをして、他の子供たちもニコニコしながら林の中の坂道を上ってゆく。ぎこちない子も確かにいたが、全ての子が何か知らない解放感の中で、一時、自然と共に生きている、そんな感動が私の中にはあった。・・・・・(以下略)』
歩くことが「ウオーキング」などと呼ばれ、なんだかちょっと特別なことのようにとらえられている昨今です。「どこそこまで行ってきた」とか「毎日○○km歩いている」とか、
そういうわかりやすい結果をつい、求めてしまいがちですが、このエピソードのように、『何か知らない解放感』に身を委ね、歩くことそのものを楽しみたいものですね。
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