※現地に設置してある案内板より転載
【ふちゅう「曲水の宴」の由来】
文武天皇の御宸筆「北叡山」の勅額を給わった古刹各願寺は勅使をはじめ法相の学徒ら都との往来も盛んで、「曲水の宴」が催されていたと伝えられている。
その後比叡山との争ひや戦乱によって七堂伽藍の寺院は悉く壊滅しました。
寛文年間(1661〜1672)に到って「長沢山各願寺」は真言宗寺院として再興され、延宝年間(1652〜1680)には、富山藩領内第一の古蹟として二代藩主前田正甫から寺屋敷をはじめ薬師、山王、稲荷三社林の寄進をうけています。
正甫をはじめ代々の富山藩主は、長沢山の風致を愛でて四季折々に来遊しました。
各願寺所蔵の四枚の「曲水の宴」襖絵は、花を愛で歌を詠んで盃を交した往時の藩主たちの華やかな宴を彷彿とさせるものであります。
「曲水の宴」の遺構は現本堂の下にあったとの言い伝えがあり、古文書によると昔の本堂は花水谷中堤の北にあたります。
平成元年(1989)「花と歴史の丘」
婦中町自然公園の設置にあたり、長沢山の昔日の繁栄の歴史を偲ぶ縁として、住民参加の伝統行事「曲水の宴」が復元されました。
(婦中町・婦中町観光協会・ふちゅう曲水の宴実行委員会・北叡山各願寺)
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